無量山 引接院 正覚寺

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2023年2月のアーカイブ

徳川家康と浄土宗➀ ~はじめに~ »

住職三分法話㊳

令和5年2月1日

 

徳川家康と浄土宗① ~はじめに~ 

 

徳川家康(以下家康公)といえば日本人なら誰もが知っている戦国時代の武将であり、260年の平和な江戸時代を築いた江戸幕府の初代将軍です。
今年のNHKの大河ドラマ 『どうする家康』の放送もあり家康公に今、改めて注目が集まっています。

しかしその家康公が浄土宗の信者であったことはあまり知られていないかもしれません。さらに家康公なくして現在の浄土宗は無かったと言っても過言ではないほど現在の浄土宗にとって多大な功績と影響を与えた方であることをここで再確認するべく、これから10回にわたり『徳川家康と浄土宗』と題してそのつながりをお伝えしていきたいと思います。

家康公は徳川を名乗る前は松平(まつだいら)の姓を名乗っていました。室町時代、松平家は三河国松平郷(現在の愛知県豊田市)のあたりを拠点とする豪族で、家康公は松平家の9代目当主です。
松平家と浄土宗の関係は、文安2年(1445)に松平家4代目当主松平親忠(ちかただ)が浄土宗を信仰したことをきっかけに松平家の菩提寺として三河(現在の愛知県岡崎市)に浄土宗寺院大樹寺を開き、その後も松平家の庇護のもと松平家領内には続々と浄土宗寺院が建立されました。さらに松平家から出家し浄土宗僧侶となった存牛(ぞんぎゅう)上人が京都知恩院の住職(知恩院25世)を務めたことで松平家と浄土宗の関係はより深まっていきました。
そして天正18年(1590)家康公48歳時、江戸入城と同時に増上寺住職の存応上人との出会いをきっかけに増上寺を徳川家の菩提寺とし、手厚い保護を加えて江戸の小寺だった増上寺を大寺院へと発展させました。家康公以降の時代も徳川家の支援によって建立された寺院は多く、現在の浄土宗が全国7000ケ寺の大宗派となったのは徳川家の恩恵であることは間違いありません。

家康公は元和二年(1616)に75歳でこの世を去りますが、その際には遺体は久能山(現在の静岡県)に埋葬、葬儀は江戸増上寺にて行い、位牌は三河大樹寺に安置するように遺言を残しています。また晩年の日課として「南無阿弥陀仏」と念仏写経をされ、その数点が現存しています。(ちなみにそのうちの一点が経緯は
不明ですが、青森県立郷土館に保管されています)
家康公は晩年日課として念仏を称え、写経を続けられました。その詳しい想いは家康公本人のみぞ知るところですが、側近の僧侶には自分が戦の世を終わらせ平和の世にするためとはいえ、多くの命を奪い、殺生を続けてきた懴悔の想いを吐露しています。その反省と懴悔の想いからの念仏であれば、それは法然上人の教えである浄土宗の『懴悔の念仏』『極楽への往生の為の念仏』に違いありません。

天下人となった家康公も法然上人の教えのもと、阿弥陀仏を頼り、救いを求めておられました。その自身の行いを懴悔して一心に極楽往生を願いお念仏を称える想いは、現在を生きる私達と同じだったはずです。                    同称十念

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