無量山 引接院 正覚寺

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正覚寺日記

2020年10月のアーカイブ

住職三分法話⑪ »

住職三分法⑪

心が乱れていても「なむあみだぶつ」

 

僧侶になる為の本山での修行時代(20代前半)に不平不満を言うと先輩の僧侶から「おまえはまだまだお念仏が足りないな」と注意をされたことを今でも時々思い出します。当時はお念仏をたくさん称えれば煩悩が無くなり不平不満も無くなるのだろうか?と疑問を感じながらも、きっとそうなんだろうと考えていました。

時が経ち、その考えは法然上人が示した浄土宗の教えとは少し違うことに気付きました。先輩が私に言った「お念仏が足りない」とはその通りであり、私の心の弱さを叱ってくれた言葉であり、先輩は決してお念仏をたくさん称えれば煩悩が無くなるとは一言も言っておらず、私が勝手にたくさんお念仏を称えると煩悩が無くなると思い込んでいただけでした。

法然上人もそのようなことはおっしゃっておらず、「ただ一向(ひたすら)に念仏せよ」とだけお示しです。

鎌倉時代、法然上人は弟子の大胡実秀という武士から時折質問を受け、それに対し手紙で返答されましたが、それが『大胡消息』として現在多数伝わっています。

その中で法然上人は大胡実秀からお念仏をいくら称えても心が乱れてしまいますが、このような状態で阿弥陀様は本当に私を救ってくださるのでしょうか?と問われ

「阿弥陀様がお迎えに来て下さるのは、常日頃からお念仏を称える人が、命終わる時に心安らかにする為です。それ理解しない人は、自分の力で心を静め、安らかな状態でお念仏をすることにより阿弥陀様のお迎えを受けることが出来る、と考えてしまいます。それは阿弥陀様の誓い(救い)の正しい理解ではないです。」と返信されています。

言い換えると、阿弥陀様は乱れた心のままでもいいからお念仏を称えなさい、といつも見守ってくれています。心が乱れてもそのまま「なむあみだぶつ」を称えるだけで大丈夫です。とお示しくださっているのです。

人は命が終わる時はもちろん、日常でも心が乱れるものです、それが生きる者の性(さが)です。心乱れずに死を受け入れ、安らかな最後を過ごす、それは誰もが出来ることではありません。また、事故や災害、病気などによって突然命が失われるかもしれません。常日頃から称えるお念仏が、途端に命終わる瞬間のお念仏になるかもしれません。また、いよいよ命が終わると思い称える念仏でも、生きながらえれば常日頃のお念仏にもなります。

どんなに自分の心が乱れても、一心に阿弥陀様を信じて「なむあみだぶつ」を称える。称えれば信心が積み重なり、阿弥陀様の救いをより信じることができ、心が乱れてもそのままでも救われるという安心感から自然と常に「なむあみだぶつ」を称えられるようになります。

自分の心が乱れることは当たり前で、乱れた心はそのままにして、しかし阿弥陀様への信心は乱れることなく一心に阿弥陀様の救いを信じて「なむあみだぶつ」を称え、共に精進してまいりましょう。

同称十念

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楽しい時も辛い時も 

いつでもどこでも 

「なむあみだぶつ」

 

以前ある檀家さんから「《なむあみだぶつ》はいつ称(とな)えればいいのでしょうか?」
と聞かれたことがあります。その時の私は「いつでも称えてください。お念仏と称えなが
ら生活することが浄土宗の基本ですから、思いついた時はいつでもどこでも《なむあみだ
ぶつ》です」と答えさせていただきました。

その理由は「なむあみだぶつ」は「阿弥陀様に極楽浄土へ救ってください!」という意味
で阿弥陀様はいつどこでこの命が終わっても必ず迎えにきて、極楽浄土へ救ってください
ます。命の終わりがいつ来るかわからないのが人生であり、その時がいつ来ても慌てるこ
とのないよう常に「なむあみだぶつ」と称える中で生活をすることが大切だからです。

鎌倉時代、法然上人のお弟子さんの一人に津(つ)戸(との)三郎(さぶろう)為(ため)守(もり)
という関東武士がおられました。手紙で法然上人にたびたび教えを請うほどの熱心なお弟子
さんでした。また現在に残る法然上人のお手紙30通のうち9通が為守公宛であるほどの法然
上人との親交が深かった方でもあります。為守公は法然上人の弟子になった後、関東に戻り
ます。関東は法然上人がお住まいの京都とは遠く離れた地です。当時、関東ではお念仏の教
えを説く方はいませんでした。為守公はそれでも法然上人の説くお念仏の信仰を一心に信じ、
お堂を設け、お念仏を一生懸命称える生活を送ります。法然上人も離れた地でお念仏を称え、
周りの者にもお念仏の教えを広めている為守公に対して、とても温かいお言葉を掛けて常々
励まされました。為守公はその法然上人からのお手紙を錦の袋に入れて肌身離さず大切に持
っていたそうです。為守公が残してくれたお手紙により、現在の私たちが法然上人の温かい
お心遣いを知ることができます。あたかも法然上人から遠い時と場所を隔てて、直接教えを
聞いているかのようです。そのお手紙の一つをご紹介させて頂きます。

為守公がお念仏を称える時に心構えについて法然上人に尋ねた時のお返事のお手紙です。

「お念仏は、歩いていても坐っていても横になっていても、いつでも、どこでも、己がどん
な状況でも、そんなことには関わらないことです。たとえ、見かけや口・身体が汚れていよ
うとも、心を清らかにし、いつも忘れずにお念仏を称えることが、肝心なことです」 

お念仏は、いつでもどんな時もひたすらに称えることが肝心です。と分かりやすく答えてく
ださっています。

楽しい時も辛い時も場所も時間も問わず、いつでもどこでも「なむあみだぶつ」と称えるこ
とが、この世を強く正しく生きる為に大切ですと時代を超えて法然上人が語りかけてくれて
いるようです。コロナ禍の今を生きる私たちも法然上人の教えの通り、いつでもお念仏を称
え心穏やかに過ごしたいものです。

ちなみに為守公は法然上人のご往生から31年後、法然上人と同じく80歳でご往生されていま
す。80歳になった時に念仏を称えてながら自ら命を絶ってのご往生だったと伝わっています。
生涯、法然上人のお念仏の信仰を一心に貫かれた方でした。
同称十念

正覚寺

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