法然上人御遺訓『一枚起請文』⑨
住職三分法話81 令和8年9月1日
前回まで『一枚起請文』の内容の解説を7回に分けてお伝えしてまいりました。内容としては意訳の通りであり、法然上人の真意は「一文不知の愚鈍の身となして尼入道の無知のともがらに同じうして、智者のふるまいをせずしてただ一向に念仏すべし」に集約されています。私達、浄土宗に縁をいただいた者はこのお言葉そのままに「ただ一向に念仏すべし」しかないと改めて思います。今回は内容の解説の後ということで『一枚起請文』について私が思うところを自由に書かせていただきたいと思います。
私がこの『一枚起請文』を初めて読んだのは今から35年前の18歳の時です。それから数えきれないほど『一枚起請文』を拝読してまいりましたが、拝読する度に18歳の時に『一枚起請文』を初めて声に出して読んだ時、読み方(息継ぎの箇所)で先生から注意を受けたことを思い出します。それは「ただ往生極楽のためにはなむあみだぶつと申して疑いなく(※息継ぎ※) 往生するぞと思いとりて申すほかには別の仔細候わず」と私が読んだところ、先生から「そこで息継ぎをすると文章の意味が通じないので、“なむあみだぶつと申して疑いなく往生するぞと思いとりて”まで続けて読むように」と言われました。
浅はかだった私はその時は息継ぎの箇所がそんなに大事か?と思って聞いていましたが、時が経ち何度も何度も『一枚起請文』のその箇所を「なむあみだぶつと申して疑いなく往生するぞと思いとりて〜」と言われた通りに続けて息継ぎなしで読む度に“疑いなく往生するぞと思う”ことの重要性を感じるようになり、今は実感として“疑いなく往生する”と思って念仏を称えることこそ法然上人がお示しのお念仏の教えであり、その真意は《このように浅はかで欲深く愚かな私でも阿弥陀仏に極楽浄土に救ってもらえることを疑いなくお念仏を称えること》と理解し、だから「疑いなく往生するぞと〜」息継ぎせず続けて読むことが大事なのだと気づきました。
日々の生活の中でこんな愚かな私が往生(極楽浄土に救われる)できることを疑いそうになることは今でも多々あります。しかし法然上人の教えの通り、こんな私でも必ず極楽浄土に往生できると信じて疑うことなく、今日もただ一向に「なむあみだぶつ」。 合掌

