法然上人御遺訓『一枚起請文』②
住職三分法話74 令和8年2月1日
前回からの続きとして今回からは『一枚起請文』の内容の解説と関連する法話を7回に分けて詳しくお伝えいたします。
原文
唐土我朝に、もろもろの智者達の沙汰し申さるる観念の念にもあらず。また学問をして、念のこころをさとりて申す念仏にもあらず。
意訳
私が説く浄土宗の念仏の教えは、中国や日本の多くの学者が説くような、心を集中して仏さまの姿や極楽浄土を想像する「観念の念仏」ではありません。
また学問を追求して、念仏の意味を解明して称えなければいけない念仏でもありません。
『一枚起請文』の最初に法然上人は、「〜あらず」「〜あらず」と否定文を2度続けています。この否定文から書きはじめられた特徴的な文章構成から法然上人の説く念仏が阿弥陀仏の本願(阿弥陀仏が念仏を称える者を必ず極楽浄土に救う約束)による念仏であるという確固たる意志を感じます。
私(法然上人)が示す浄土宗の念仏は、これまで言われてきた仏様や極楽浄土を思い描きながら称える念仏(観念の念仏)とは違います!また仏教を深く勉強してから称える念仏(学問の念仏)とは違います!という事を最初に述べる必要があったのは、その時代にいかに多くの人が『観念の念仏』や『学問の念仏』でなければ極楽浄土に救われないと思い込んでいたことがうかがえます。
法然上人は『一枚起請文』の冒頭にまずはその固定観念をはっきりと否定し、その後に極楽浄土を具体的に思い描くことができなくても、仏教の勉強を極めることができなくても「阿弥陀仏の救いを信じて只ひたすら“なむあみだぶつ”と称えるだけでいいんですよ」という本意を示されています。法然上人の想いをそのままに、これからもただ一向に「なむあみだぶつ」。

