法然上人のお弟子達 ~法蓮房信空~(後編)

住職三分法話60            令和6年12月1日

法然上人のお弟子達 ~法蓮房信空~(後編)

(前回の続き)法然上人が70歳にさしかかる頃、京都では浄土宗の信者が飛躍的に増えていきました。しかし浄土宗の広がりを良く思わない既存の仏教教団などから浄土宗は弾圧や非難を受けるようになり、1204年には浄土宗が消滅するかもしれないほどの大事件が起こります。
天台宗の僧侶達が天台宗座主(当時の仏教界のトップ)に浄土宗の念仏を停めるように要望し、天台宗をあげて浄土宗を消滅させる動きが活発になります。その動きに対して法然上人の一番弟子の信空は「浄土宗は他の宗派を否定するような教義ではありません」という内容の起請文を法然上人の弟子190名の署名と法然上人の直筆の花押を添えて天台座主に提出し騒動を治めようとします。これが有名な『七箇条制誡』(しちかじょうせいかい)です。しかし『七箇条制誡』の提出により事態は治まるどころか天台宗の僧侶達は一歩も引かず、今度は法相宗の興福寺からも浄土宗の念仏の停止を迫る『興福寺奏状』が朝廷に提出され、さらに翌年には法然上人の弟子の住蓮と安楽が死刑になり(詳しくは住職三分法話54参照)、法然上人が京都から讃岐に流罪に処せられ、ついには浄土宗の念仏を停止する命令が朝廷から出てしまいます。
この時、流罪が決まった法然上人に信空は次のように申し出ます。
「朝廷からの命令ではありますが、老齢の法然上人が遠地へ行かれることは死罪に等しく、法然上人の命も念仏の教えも本当に消滅してしまうかもしれません。どうか今は朝廷に表向きは念仏を停止しましたと報告し、内密に念仏を称え、事態が鎮静化するまで耐えましょう」と。この信空の申し出に対して法然上人は「今回の流罪を私は受け入れようと思います。京都で長く念仏の教えを布教してきましたが、田舎のほうにはまだまだ念仏の教えは広まっていません。今回の流罪は讃岐の人々へ念仏の教えを伝えることができる機会と思えば流罪も朝恩(朝廷からのご縁)として受け止めることがでます。私の留守の京都は任せましたよ」と。
この言葉に信空はもちろんその言葉を聞いた弟子達は皆涙を流し、法然上人を見送る決意と浄土宗の念仏の教えを絶やさない決意を固めました。師匠を思う信空の想いと念仏の教えを命がけで伝える法然上人の想いが交差する胸が熱くなるエピソードです。このお二人の想いを800年後に生きる私達はそのまま受け止め、ただ一向に念仏することがその恩に報いることだと今改めて感じています。
                  「なむあみだぶつ」合掌