住職三分法話⑫

令和2年12月1日   住職三分法話⑫

 

心の中の鬼

 

最近、ニュースでよく見る社会現象にもなっている話題の漫画『鬼滅の刃』。なぜ、こんなに話題になっているのだろう?と疑問に思い、最初から最終話まで読んでみました。

話は家族を鬼に殺され、妹を鬼にされた主人公が妹を人間に戻すために修行に出るところから始まります。大筋としては人間の欲望やこの世の無常が生み出した鬼とそれに立ち向かう、戦う人間の強さと弱さを描いており、読んだ感想としてはとても面白かったです。
老若男女問わず共感できる場面と共感できる登場人物がいて、自分の人生と重なる部分もあり、幅広い世代に受け入れられていることに納得しました。さらに仏教の要素が満載で、話の中では浄土宗等の経典でもある『阿弥陀経』が読まれる場面も数回あり、人間が欲望や苦悩の中でもがき、救いを求める姿が多く描かれていました。

 

仏教とは文字通り『に成る為のえ』です。仏に成るとは欲望や苦しみが一切無くなる状態です。そして仏教では欲望(煩悩)は苦しみを生む元凶とされ、仏に成る修行の妨げになる悪とされます。しかし一方では欲望(食欲、睡眠欲、性欲、愛情欲、生存欲など)が無ければ人間は生きることができず、文明の進歩もないのが現実です。

人間は次々と沸く欲望のせいで苦しみ、必ず年をとり、病気になり、いずれは死ぬ。これは生きている限り避けられない現実であり苦しみです。

しかし「死にたくない、年をとりたくない、幸せになりたい」という欲望と思い通りにならない現実の違いによって苦しみは限りなく膨れ上がっていくものです。この欲望を抑えて精進することが修行であり、仏と成る為の道の一つです。

 

『鬼滅の刃』に話を戻すと、鬼はすべて元々私達と同じ人間だったという設定で、欲望や苦しみが限りなく膨れ上がった時に悪い縁に会い、鬼となり人間に危害を加えることになります。仏教では鬼は恐ろしいもの、悪いもの、地獄の番人として登場します。よくよく考えると私達人間は誰もが欲望や苦しみがあり、心の中には誰もが鬼を抱えているとも言えます。

その鬼と向き合い自分を戒めることは簡単なことではありません。心の中の鬼と向き合い、このような愚かな自分が救われる道は「南無阿弥陀仏」と阿弥陀様に身をお任せするしかないという愚者の自覚こそが仏教の原点であり、浄土宗の示す救いです。まさに「南無阿弥陀仏」のお念仏は心の中の欲望や苦しみを滅する『鬼滅の刃』そのものだと感じました。          同称十念

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『利釼の名号』(りけんのみょうごう)南無阿弥陀仏の六字を字画の末端を剣のように鋭くして悪因縁や煩悩を断ち切るように書いたもの。