住職三分法話㊲ 法然上人と御家人➉ ~まとめ~
住職三分法話㊲
令和5年1月1日
法然上人と御家人➉ ~まとめ~
法然上人がご在世の鎌倉時代、将軍(鎌倉殿)と主従関係を結び家来(家人)となった武士を将軍への敬意を表す「御」をつけて御家人と呼ぶようになりました。その御家人の中には法然上人の弟子となられた方が多く、これまで9回にわたりご紹介してまいりました。私自身、この機に法然上人の弟子となった御家人を調べて感じたことは、そのほとんどの御家人は一般的には有名ではない歴史に埋もれ名も残らないような武士たちですが(熊谷直実は埼玉県の熊谷駅前に銅像が残るほど有名ですが)それぞれが法然上人の弟子として念仏を心の拠り所として熱い思いを持ち続け命がけで鎌倉時代を生き抜いた浄土宗を信仰する大先輩であり※善知識の方々でした。
(※仏教を信仰し、縁のある人を仏道に導く徳ある人)
中でも私が改めてこの御家人たちの中で感情移入した人物は、この住職三分法話『法然上人と御家人①』でご紹介した甘糟忠綱(あまかすただつな)です。
ほとんどの御家人は法然上人の教えを聞き、弟子となった後は武士を辞めて僧侶になりましたが、甘糟忠綱は武士のまま念仏信仰を貫き武士として往生した人物です。
法然上人の弟子となり仏道を志すなら、殺生を仕事とする武士を辞めることは当然だと思いますが、忠綱はその葛藤を素直に法然上人に打ち明け、教えを請いました。
「私は、武家に生まれ、戦をして家族と領地を守ってきました。これからそれを貫いて敵と戦えば、人を殺すことになります。しかし武士を辞めて極楽に往生したいという気持ちを貫けば、周りからは末代まで臆病者と呼ばれるでしょう。何とか、武士の家業も捨てる事無く、極楽往生の願いも叶えられる事はできないでしょうか!」
その質問に法然上人は次のようにお手紙で答えらました。
「阿弥陀様の救いはその人の浄・不浄を選ぶ事も無いのです。時にも場所にも縁にも関係なく、罪人なら罪人として、「なむあみだぶつ」を称えるならば、その時から極楽への往生は叶えられるのです。たとえ戦で命を失う事になっても、念仏さえ称えていれば必ず、往生が遂げられる事でしょう」と。そして仏教徒の証である袈裟を忠綱に送りました。
忠綱はその袈裟を受け取ると鎧の下にその袈裟をかけ、文字通り命がけで最後の合戦に挑みました。そして忠綱はその戦で命を落とすことになります。激しい戦いで精魂尽きた忠綱は、最後に合掌し声高々に念仏を称え、首を差し出すように頭を下げて敵に首を切らせた見事な往生であったと伝わっています。
忠綱をはじめ鎌倉時代の御家人たちが、身分、職業、性別、有名、無名などに関係なく、ただ一向に阿弥陀仏の救いを信じ、法然上人の教えを信じて貫いたように、現代に生きる私自身も御家人たち善知識をお手本にこの身のまま、智者のふるまいをせずしてこれからもただ一向に念仏を称えて参りたいと思います。 同称十念