徳川家康と浄土宗③ ~増上寺~

住職三分法話㊵

令和5年4月1日

 

徳川家康と浄土宗③ ~徳川家と増上寺~ 

 

戦国時代1590年、徳川家康公48歳の時、豊臣秀吉の命により関東の地を治めるようになってすぐに、徳川家の菩提寺として江戸の増上寺が選ばれました。その理由は(『大本山増上寺史』によると)増上寺の住職だった存応上人と家康公の運命の出会いによってのことでした。

当時、家康公が江戸城に入るというので、その様子を見ようと江戸の人々、老若男女が群集し、増上寺住職、存応上人も門前に出てこの様子を見ていました。大名行列の中、馬上の家康公が増上寺の門前に差しかかると、どうしたことか馬が止まって進みません。左右を見渡すと門前に一人の僧侶が立っている。そこで家康公は「あそこに立っているのは何という僧侶か」と家来に尋ねた。その僧侶は「名は存応、寺は浄土宗増上寺でございます」と答えた。家康公は松平家菩提寺の三河の大樹寺も浄土宗という縁だと思い、馬下し増上寺に立ち寄られました。
存応上人は驚きながらも茶の接待をし、家康公は一服した後、帰り際に「明朝、自分一人で参詣し存応上人と朝食を共にしたい」と言い、その場を後にした。存応上人はその言葉に耳を疑ったが、万が一来られるかもしれないと、翌朝、朝食を用意しておくと、家康公は約束通り本当に一人でお越しになられました。その時家康公は「自分が今朝、来たのには理由がある。大将の身分で菩提寺のないのは死を忘れるのと同じである。先祖代々の菩提所は三河の大樹寺であるが、江戸にはないので増上寺を菩提所としたい」と頭を下げられました。すると存応上人その家康公のお姿にただ涙を流すだけで返事が出来ませんでした。「どうしたのか」と家康公が尋ねると「昨日入府したばかりなのに、この様な沙汰があろうとは思いもよりませんでした。そのうえ、私のような愚僧が家康公の菩提所の住持になるとはなんと有難いことであろうと涙が溢れました。」家康公も感悦し「それでは入檀の契約に十念を授けてほしい」といい、存応上人からお十念を授与され(南無阿弥陀仏を共に十遍称えること)、それ以降家康公の手厚い保護もあり、増上寺は大寺院として隆盛へと向かって行きました。そして家康公は元和二年(1616年)増上寺にて葬儀を行うようにとの遺言を残し75歳で往生され、家康公の葬儀は増上寺で二代将軍徳川秀忠公が喪主となり盛大に執り行われました。

家康公と存応上人の出会いと、この世の人の縁の大切さに想いをはせ、共に今日もただ一向に「南無阿弥陀仏」。      同称十念