徳川家康と浄土宗④ ~黒本尊~

住職三分法話㊶

令和5年5月1日

 

徳川家康と浄土宗④  ~黒本尊~ 

 

徳川家康(以下家康公)は二十代前半の時期、領地の三河(現在の愛知県豊田市、岡崎市を中心とする地域)において一向一揆との壮絶な戦いを経て、三河を統一し後に名実共に戦国大名となります。家康公はその頃から信仰の対象として阿弥陀如仏の立像を戦の時には共に戦場へお連れするようになりました。その阿弥陀仏像は天下人となった家康公が念持仏として生涯身近に大切にし、数々の戦に同行した仏様として家康公が亡くなった後には勝負事の守り仏として人々の信仰を集めるようになりました。
その阿弥陀仏像は家康公が毎日お香を薫じてお祀りしていたせいか黒光りするようになり、そのお姿から『黒本尊』と呼ばれるようになりました。
現在『黒本尊』は徳川家の菩提寺、(東京都)浄土宗大本山増上寺内の安国殿に秘仏として安置されています。実物の『黒本尊』は秘仏となっている為、目にすることはできませんが、お前立(分身としての仏像)の『黒本尊』は年に3回(1月15日、5月15日、9月15日)の御開帳の時に拝むことができます。

徳川家に伝わる『黒本尊縁起』という書物には『黒本尊』に関するエピソードが次のように記されています。
家康公最晩年の大坂の冬の陣(1614年)での事、家康公は真田幸村の手勢に本陣近くまで攻め込まれ、万事休すとなり、自害を覚悟した時、謎の黒衣の武者が現れて真田軍の鉄砲の攻撃を受けながらも家康公を守り、家康公はその隙にその場を離れ、その後大阪の陣は徳川方が勝利し、家康公は命拾いをしました。その戦の後、家康公が『黒本尊』を見ると体に弾痕があり、足にはつくはずのない泥がついていました。と。
その謎の黒衣の武者は『黒本尊』の化身だったのかは定かではありませんが、家康公はその後も『黒本尊』を身近に安置し、毎日『黒本尊』の前でお念仏を称えられ、自分が亡くなった後は菩提寺である増上寺に安置するようにと遺言を残されました。

いつか『黒本尊』御開帳の時に増上寺へお参りし、家康公を守り抜いた『黒本尊』を拝みながら「南無阿弥陀仏」と声高にお念仏を称えたいと思います。                    合掌