徳川家康と浄土宗⑥ ~大樹寺~
住職三分法話㊸
令和5年7月1日
徳川家康と浄土宗⑥ ~大樹寺~
大樹寺(愛知県岡崎市)は徳川家康(以下家康公)の菩提寺であることは3月の住職三分法話『徳川家康と浄土宗②~厭離穢土欣求浄土~』にてお伝えした通りですが、今回は当時の大樹寺を含め寺院をとりまく状況がどのようなものだったのか?家康公が大樹寺に対して命じた法度(法律のような決め事)を通じてお伝えしたいと思います。
天正9年(1581)4月、39歳の時、家康公は大樹寺に対して五か条の法度を定めました。その内容は
- 僧侶同士の口論の禁止
- 夜中に瓦礫を打つなどの狼藉の禁止
- 日暮れに女が寺に出入りすることの禁止
- 僧侶の悪事を私的に誹謗中傷することの禁止
- 法度に背いた僧は一同で申し出ること 以上。
この法度が定められたのは家康公の父、松平広忠公三十三回忌法要が大樹寺で営まれた時です。その法要には僧侶100人が参列し本堂に入りきらないほどの食糧が奉納されました。広忠公は22歳でこの世を去っています。当時家康公は8歳でしたが、父の供養を欠かさず行い、父や先祖が祀られる大樹寺を特別な想いで庇護してきました。大樹寺は現在も徳川家(松平家)の菩提寺として歴代将軍の位牌が安置され法要が営まれていますが、戦国時代は大樹寺を含む多くの寺院が本来の姿である仏教の修行や供養の場としての役目を果たすことが難しい状況でした。戦続きの岡崎では特に寺院は荒れ果て僧侶は仏道に精進する状況ではなかったことが家康公の定めた法度からも想像できます。
禁止事項を見ると僧侶同士の口論や争い、女性の出入りが横行していたことが伺えます。また家康公は二十代の前半は三河地方の一向一揆(一向宗の寺院を中心とした反乱)との戦いに明け暮れた経験から、寺院に対しては特に気を配り、民衆の心の拠り所となるべく僧侶に期待を込めておられたと思います。現在の大樹寺や浄土宗僧侶を見て家康公が何を想うか興味深くも恐ろしくもあります。
極楽浄土からの家康公の視線を感じながら精進あるのみです。 合掌