法然上人のお弟子達 ~安楽房遵西~

住職三分法話54              令和6年6月1日

 

法然上人のお弟子達 ~安楽房遵西~

 

今回は多くの法然上人の直弟子(直接法然上人から教えを受けた弟子)の中で私がもっとも嫌いだった安楽房遵西(あんらくぼうじゅんさい)さん(以下遵西)をご紹介いたします。

“嫌いだった”とあえて過去形にしたのは現在は尊敬をしている表れであり、過去の自身の不勉強を恥じ、遵西への懴悔と敬意の念を込めて今回は書かせて頂きます。

遵西は生年月日等は不明ですが、法然上人の直弟子の中では古参の弟子であり、伝記に残るエピソードが多いお弟子さんです。

その一つに、法然上人の代表的な著書『選択本願念仏集』(せんちゃくほんがんねんぶつしゅう)の執筆を法然上人から任されるも、多くの弟子の中から自分が執筆を任されたのは自分が優秀であるからというような驕慢(きょうまん)の態度が見受けられたため、法然上人から叱責されその役を外されたり、浄土宗の教えを他宗の信仰を持つ者にも強引に布教しため、既存の仏教宗派である法相宗興福寺より抗議を受けたという話などがあり、トラブルメーカーの印象があります。

さらに極め付のエピソードは建永元年12月、遵西が同じく法然上人の直弟子の住蓮と共に京都東山で声明(しょうみょう)の法要を営んだときのことです。遵西は容姿端麗で美声であり、その声明の美しさに魅かれ、多くの人々が集まり、浄土宗に入信する者も多く現れました。しかしその中に時の権力者、後鳥羽上皇の女官(上皇の身の回りのお世話をする女房のような役)の二人もいて、女官達はその声に魅了され、後鳥羽上皇に無許可で浄土宗僧侶として出家までしてしまいました。これを知った後鳥羽上皇は烈火の如く怒り、遵西は住蓮と共に死刑を言い渡されます。そして罪人として京都六条河原にて斬首されてしまったのです。それまでの日本の歴史上、僧侶の死刑というのは実例がなく、それだけ後鳥羽上皇の怒りは凄まじいものでした。

さらに遵西の師匠である法然上人はこの件の監督責任を問われ、75歳の老体でありがなら京都から四国(讃岐)へ流罪となってしまいます。これは建永の法難と言われ浄土宗にとって一大事件でした。

この建永の法難の原因を作ったとして私は遵西のことが長らく嫌いだったのですが、よくよく遵西のことを調べると法然上人の直弟子の中では特に優秀だったことは間違いなく、浄土宗の信仰を自らも深く信じ布教にも熱心で、声明で人々を魅了するという僧侶として無二の才能があり、六条河原で斬首される間際には西を向いて合掌し高声念仏を称えながらの見事な最後だったことは僧侶の鏡ともいうべき先達であります。また法然上人が流罪になってしまったことを誰よりも悔やんでいたのは遵西だったと思うと、誰よりも法然上人の浄土宗の教えを純粋に貫いたお弟子だったことは間違いありません。遵西の篤い信仰の姿に想いをはせて今日もただ一向に「なむあみだぶつ」      合掌