住職三分法話⑪
住職三分法⑪
心が乱れていても「なむあみだぶつ」
僧侶になる為の本山での修行時代(20代前半)に不平不満を言うと先輩の僧侶から「おまえはまだまだお念仏が足りないな」と注意をされたことを今でも時々思い出します。当時はお念仏をたくさん称えれば煩悩が無くなり不平不満も無くなるのだろうか?と疑問を感じながらも、きっとそうなんだろうと考えていました。
時が経ち、その考えは法然上人が示した浄土宗の教えとは少し違うことに気付きました。先輩が私に言った「お念仏が足りない」とはその通りであり、私の心の弱さを叱ってくれた言葉であり、先輩は決してお念仏をたくさん称えれば煩悩が無くなるとは一言も言っておらず、私が勝手にたくさんお念仏を称えると煩悩が無くなると思い込んでいただけでした。
法然上人もそのようなことはおっしゃっておらず、「ただ一向(ひたすら)に念仏せよ」とだけお示しです。
鎌倉時代、法然上人は弟子の大胡実秀という武士から時折質問を受け、それに対し手紙で返答されましたが、それが『大胡消息』として現在多数伝わっています。
その中で法然上人は大胡実秀からお念仏をいくら称えても心が乱れてしまいますが、このような状態で阿弥陀様は本当に私を救ってくださるのでしょうか?と問われ
「阿弥陀様がお迎えに来て下さるのは、常日頃からお念仏を称える人が、命終わる時に心安らかにする為です。それ理解しない人は、自分の力で心を静め、安らかな状態でお念仏をすることにより阿弥陀様のお迎えを受けることが出来る、と考えてしまいます。それは阿弥陀様の誓い(救い)の正しい理解ではないです。」と返信されています。
言い換えると、阿弥陀様は乱れた心のままでもいいからお念仏を称えなさい、といつも見守ってくれています。心が乱れてもそのまま「なむあみだぶつ」を称えるだけで大丈夫です。とお示しくださっているのです。
人は命が終わる時はもちろん、日常でも心が乱れるものです、それが生きる者の性(さが)です。心乱れずに死を受け入れ、安らかな最後を過ごす、それは誰もが出来ることではありません。また、事故や災害、病気などによって突然命が失われるかもしれません。常日頃から称えるお念仏が、途端に命終わる瞬間のお念仏になるかもしれません。また、いよいよ命が終わると思い称える念仏でも、生きながらえれば常日頃のお念仏にもなります。
どんなに自分の心が乱れても、一心に阿弥陀様を信じて「なむあみだぶつ」を称える。称えれば信心が積み重なり、阿弥陀様の救いをより信じることができ、心が乱れてもそのままでも救われるという安心感から自然と常に「なむあみだぶつ」を称えられるようになります。
自分の心が乱れることは当たり前で、乱れた心はそのままにして、しかし阿弥陀様への信心は乱れることなく一心に阿弥陀様の救いを信じて「なむあみだぶつ」を称え、共に精進してまいりましょう。
同称十念