住職三分法話⑳

令和3年8月1日   住職三分法話⑳

決して見捨てない

 

光明徧照  こうみょうへんじょう

十方世界  じっぽうせかい

念仏衆生  ねんぶつしゅじょう

摂取不捨  せっしゅふしゃ

《訳》

阿弥陀様の救いの光明は、いつもすべての世界を徧く照らし、お念仏をお称えする
私たちを見捨てず、必ず救い取ってくださいます。

お念仏を称えることは浄土宗においてもっとも大事なことで、浄土宗の教えそのものです。
そのお念仏を称える前にはこの偈文(お経)を称えます。
お念仏を称えることで阿弥陀様に救われ極楽浄土へ往生させていただくことが浄土宗の
教えの全てです。その阿弥陀様の救いを「光明」と受け取ります。
〝念仏を称え極楽往生を願う者は必ず救います〟という阿弥陀様からの慈悲こそが光明です。
そしてこの光明は、月の光がいつも降り注いでいるのと同じように、阿弥陀様の光明も常に
私たちへ放たれ届いています。しかし、建物の中に居たり、目を閉じていては、その美しさ
を知ることはありません。実際に月を眺めてこそ、その美しさを知ることができます。
それと同じように、阿弥陀さまの救いの慈悲は平等に降り注いでいますが、お念仏を
称えなければその慈悲を知ることはできません。
阿弥陀様は、この世で苦悩し続ける私たちを必ず救うと、いつも照らしてくださいます。
その救いの光明に気づき、信じてお念仏を称えるるかは、私たちの心次第です。

その心を法然上人は次のお歌に込められました。

     月かげの至らぬ里はなけれども 眺むる人の心にぞすむ

月の光が届かない里はないけれど、月を眺めることで、その美しさを感じる事が出来るの
できます。闇夜を照らす月の光には差別は一切なく、あらゆる場所を平等に分け隔てなく
照らす。しかしどんなに月の光が照らしていても、月を眺めようとしない人に、月の光が
さしていることは決して分らないものです。
お念仏を称えることで、必ず阿弥陀様が極楽浄土へ救ってくださるということが自然に心に
澄み渡るかのように「南無阿弥陀仏」を称えてまいりたいと思います。

合掌    同称十念