住職三分法話㊱ 法然上人と御家人⑨ ~角張成阿(かくはりじょうあ)~

住職三分法話㊱

令和4年12月1日

法然上人と御家人⑨ ~角張成阿(かくはりじょうあ)~

 

法然上人がご在世の鎌倉時代、将軍(鎌倉殿)と主従関係を結び家来(家人)となった
武士を将軍への敬意を表す「御」をつけて御家人と呼ぶようになりました。その御家人
の中には法然上人の弟子となられた方が多く、前回まで法然上人の弟子となった8人の
御家人を紹介してまいりました。今回ご紹介する角張成阿は鎌倉時代の武士ではあるも
のの鎌倉殿ではなく木曽(源)義仲の家人なので厳密には御家人ではないかもしれませ
んが、武士出身の法然上人の直弟子の一人としてご紹介させていただきます。
角張成阿は角張の庄(現在の長野県上田市付近)で1152年に武士家の次男として誕生
しました《伝》(出生については詳しくは不明)。成阿とは法然上人の弟子となった後の
名前なので法然上人の弟子になる前は角張荒次郎という名でした。角張荒次郎はその
名の通り荒々しい武士として平家打倒の為に挙兵した木曽義仲に従い、京に攻め込み
武功を上げました。しかし主君の木曽義仲が平家を京から追い出した後、予期せぬ政争
に巻き込まれ朝敵となり、本来仲間であるはずの従兄弟の源頼朝に討たれてしまいます。
しかもその戦いで共に戦っていた息子が命を落としてしまいます。その事が大きな原因
となり角張荒次郎は武士を辞め法然上人の弟子になりました。
法然上人の弟子となり角張成阿(正式には角張成阿弥陀仏)となった荒次郎は法然上人
の近習の弟子として20年以上の長きに渡り法然上人の側で教えを受け、念仏の信仰を
深めていきました。角張成阿のことは資料が少なく、法然上人の第一の伝記である
『四十八巻伝』にはただ一度短い文で登場するのみの存在です。その『四十八巻伝』
には次のように紹介されています。
建永二年(1207年)3月16日、京を出発しご流罪の地に赴く時、信濃国の御家人、
角張成阿、力者の棟梁として最後の御供とて御輿(みこし)を担ぐ。
《訳》建永二年に法然上人(75歳)が京から四国の讃岐へご流罪となる際、信濃出身
の御家人(伝記では角張成阿は「御家人」と記されています)角張成阿は法然上人の
御供として力者の棟梁(護衛のリーダー)になり御輿を担ぎ、共にご流罪の地へ行った。
とあります。
また別の資料にはその時に法然上人と共に讃岐へ渡った弟子は角張成阿を含め12人で、
角張成阿はその後、法然上人が京に帰るまで4年半もの間、共に過ごし、共にお念仏を
称え、高齢の法然上人を近くで支えられた近習の弟子であったとあります。さらに別の
資料には角張成阿は『一向信心念仏者』とも記されています。
その証拠に京に戻った角張成阿はすぐに法然上人の元を離れ、地元の信濃の地で念仏の
信仰を伝えるべく三つもお寺を建て法然上人の教えを篤く信仰し続けました。その三つ
のお寺は今も長野県に現存し、法然上人の念仏の教えと共に角張成阿の偉業を伝えて
います。
角張成阿のように法然上人のお弟子の中では後世において有名ではなくとも、
『一向信心念仏者』としてひとすじに法然上人の教えを守りぬいた多くの先人達に想い
をはせて、私自身、少しでもその志に近づけるよう今日もただ一向に「南無阿弥陀仏」。   同称十念