徳川家康と浄土宗② ~厭離穢土欣求浄土(えんりえどごんぐじょうど)~

徳川家康と浄土宗② ~厭離穢土欣求浄土(えんりえどごんぐじょうど)~ 

 

徳川家康(以下家康公)と浄土宗の最初のつながりは家康公が19歳(17歳説あり)の時、織田信長が今川義元を打ち破った桶狭間の戦いの時です。桶狭間の戦いでは今川義元の家臣だった家康公は織田軍に追われ命からがらわずか20名足らずの家臣と共に先祖代々の菩提寺である岡崎の大樹寺へ逃げ込みます。そして寺を敵に囲まれ追い込まれた家康公は敵に首を差し出すわけにはいかないと決意し、大樹寺内の先祖代々の墓前で自害をはかろうとするのですがその時、自害を止めに現れたのが大樹寺の住職、登誉上人でした。
登誉上人は、先祖代々の墓前でひざまづく家康公に「あなたの先祖は代々この岡崎の地を必死で守ってこられました。あなたも生き延びてこの岡崎をどうかお守りください。」と語りました。そして『厭離穢土 欣求浄土』(えんりえどごんぐじょうど)
【穢(けが)れたこの世を厭(いと)い離れ、極楽浄土に往生することを願い求める】という『往生要集』という仏教書に説かれる言葉伝え、この世をしっかり生き抜くように励まされました。その言葉を受け、家康公は自害することを踏みとどまりました。

厭離穢土欣求浄土』の教えを受け自害を思いとどまり、生き残ることを選んだ家康公ですが、周囲は依然、敵に囲まれています。家康公にはわずかな手兵しかいません。この絶体絶命の状況の家康公を救ったのは、大樹寺の僧侶たちでした。僧侶たちは寺の門を閉じていた巨大な角材(かんぬき)を抜いて武器にしたり、投石をして地元岡崎の殿様の家康公のために奮戦し、犠牲者を出しながらもなんとか敵を撃退することに成功しました。こうして危機を乗り切った家康公は、無事に岡崎城へ帰還し『厭離穢土欣求浄土』は、家康公終生の座右の銘となり、戦いの時には旗印として高々と掲げられることになります。家康公はこの時を境に浄土宗の信仰心のもと戦国武将として乱世に踏み出すことになります。

現在放送中のNHK大河ドラマ『どうする家康』ではこの場面を登誉上人の代わりにのちに家康公の重臣となる榊原康政が『厭離穢土欣求浄土』の言葉を家康公に伝え、「穢れたこの世を浄土にすることをめざせ!」と励まされていました。
この解釈は本来の『厭離穢土欣求浄土』の意味とは違いますが、若き家康公はドラマの解釈通り、戦国の世において『この世を浄土に(平和に)する』という志を持って、時には非情になり、苦しみながら信じた道を進まれたと思います。そして天下泰平の世を築いた晩年は自身の懺悔やこれまで命を落としていった者への供養の思いから、毎日『南無阿弥陀仏』の写経をし、毎日「南無阿弥陀仏」とお念仏を称えられていた事実から推察するとその晩年の想いはまさに本来の『厭離穢土欣求浄土』の教えである「ただただ極楽浄土へ救われたい。阿弥陀様お救い下さい」の心からの願いだったはずです。

時代は違いますが、まさに乱世の現代を生きる私たちも晩年の家康公のように『厭離穢土欣求浄土』の教えと共に今日もただ一向に「南無阿弥陀仏」。    同称十念