徳川家康と浄土宗⑧ ~遺言~

住職三分法話㊺

令和5年9月1日

徳川家康と浄土宗⑧ ~遺言~

 

徳川家康公(以下家康公)は元和2年(1616)4月17日、駿府城にて生涯を閉じました。行年75歳。平均寿命が40歳~45歳といわれる戦国時代においてかなりの長寿でした。
家康公は、亡くなる二週間ほど前、三人の側近の家臣を呼び次のような遺言を残しています。

  1. 遺体は駿府の久能山に埋葬すること
  2. 埋葬の向きは西に向け蹲踞(そんきょ)させること
  3. 葬式は江戸の増上寺で行うこと
  4. 位牌は三河の大樹寺に納めること
  5. 一周忌の後に、日光に小さなお堂を建て※勧請(かんじょう)すること

※勧請=分霊を祀り祈りをささげること

この遺言の通り家康公のご遺体は、久能山(静岡県静岡市)に葬られ、西向きに蹲踞の形で埋葬され、葬儀は江戸の浄土宗大本山増上寺で行われ、位牌は故郷の三河の大樹寺に納められました。
しかし、遺言の5番目の「一周忌の後に、日光に小さなお堂を建て勧請すること」はその通りには守られませんでした。一周忌の後、日光には小さなお堂ではなく壮大で豪華絢爛なお堂が建てられました。現在の日光東照宮です。これは家臣たちが遺言を忠実に守らなかったことは事実ですが、家康公の遺徳を偲ぶ家臣たちの篤い忠義からの行いだったと信じたいです。
そして家康公が亡くなられた直後、ご遺体は駿府城から久能山に運ばれ埋葬されましたが、久能山東照宮に伝わる話では、現在も遺言の通り家康公のご遺体は四角い棺に正装姿で座した状態で、西を向いて葬られているとのことです。
この西を向いて葬られていることがとても興味深いところです。
歴史研究家の間では家康公が西向きに安置するように遺言を残したのは、この世を去った後も豊臣の残党がいる西国や京の朝廷に睨みをきかせる為と言われていますが、私は家康公が西向きに安置するように遺言されたのは西方極楽浄土への往生を願ったからだと確信しています。晩年の家康公は毎日お念仏を称え、数えきれないほどの「南無阿弥陀仏」の写経をされています。それは旗印の『厭離穢土 欣求浄土(えんりえど ごんぐじょうど)』(意味は3月の住職三分法話参照)の想いからだったに違いありません。生涯において平和な世を築くために時には多くの人を殺めてきた自身が晩年に後生を思う時、地獄に落ちることを恐れ、阿弥陀仏に救われ西方極楽浄土に往かせて頂きたいと心から願ったはずです。その願いからの「西向き」の遺言だったはずです。そうでなければ家康公があれだけの数の写経をひたすらにされた説明がつきません。
家康公が晩年、ただ一心に阿弥陀仏の救いを求めたお姿を想い、今日もただ一向に「南無阿弥陀仏」。                                     合掌