徳川家康と浄土宗➉~母の供養~

住職三分法話㊼

令和5年11月1日

 

徳川家康と浄土宗~母の供養~ 

 

家康公の母、於大(おだい)様は歴史の表舞台にはほぼ登場しませんが、戦国時代の争乱に翻弄されながら天下人の母として波乱万丈の生涯を送られた方です。
於大様は14歳の時、家康公の父松平広忠公に嫁ぎ翌年岡崎城で家康公を出産されます。しかしその3年後、於大様の兄が松平家と敵対する織田家に味方したため離縁させられ、家康公とは離ればなれになってしまいます。最愛の息子と別れなければならなくなった悲しみの中、於大様は服や菓子などの物資を送り続け息子の身を案じていました。
世の中の情勢が変わり16年後、於大様は家康公(19歳)と再会を果たします。2歳の時に別れた息子とその後は離れていた時を埋めるように親子の絆を深め、時には母として家康公へ助言や叱咤激励をする厳しくも優しい母として家康公の活躍を見守ります。
時は流れ、於大様は慶長7年8月29日、家康公が滞在する京都の伏見城にて75年の生涯を閉じられます。家康公(59歳)が天下分け目の関ヶ原の戦いに勝利し実質的な天下人となった2年後のことでした。

於大様の死後、家康公は生前に親孝行を十分にできなかったことを悔やむかのように母の供養を丁寧に行っています。
於大様の葬儀は知恩院で盛大に行われ、その後遺体は江戸の伝通院へ送られ埋葬されました。一周忌には家康公参列のもと知恩院にて法要が厳修され、三回忌、七回忌には知恩院や伝通院に寺領増など多大な寄進が行われました。そして十三回忌(家康公73歳)の年には、天下泰平の総仕上げの戦、大阪(冬の陣)へ赴く前に知恩院にて於大様の月命日に合わせ法要が行われました。

さらに家康公は天下人となった後も於大様の為、念仏を日々欠かさず称えています。家康公が母の供養を続けたお姿に想いを馳せて、その供養の心を見習い、今日もただ一向に「なむあみだぶつ」。   同称十念