法然上人のお弟子達 ~聖光~

住職三分法話51
令和6年3月1日

 

法然上人のお弟子達 ~聖光~

 

法然上人のお弟子達の中で浄土宗の教えを正しく相伝し、法然上人に認められ浄土宗の二代目を継いだのが聖光上人です。(以下敬称略)

聖光は法然上人と同じく武家の生まれで、9歳の時に出家し地元(現在の北九州市)の寺で修行の日々を送ります。22歳で地元を離れ、京都の比叡山でさらに厳しい修行と勉学に励みます。そして30歳の時にその秀才ぶりが認められ、九州の僧侶の修行道場である油山の学問をつかさどる地位「学頭」という役職に就きます。
しかし、学頭に就いた2年後、僧侶として着実に徳を積み重ねていた矢先、当時、共に油山で学んでいた弟が、突然倒れ、意識不明となるのを目の当たりにします。その後、弟はなんとか一命を取りとめましたが(一説では死亡したとも伝わります)、その際、聖光は、自分の学んできた仏教の教えはこのような場面(人の死の間際)では全く役に立たないと絶望を感じます。この世の無常を感じながらも今まで修行に励んできましたが、どんなに修行し学問を究めてもその苦悩は消えることはありませんでした。そのような苦悩を抱えながら学頭としての法務に励む日々の中、聖光は京都で念仏の教えを説く法然上人の事を耳にし、36歳の時、法然上人のもとを訪ねます。これがまさに〝運命の出会い〟となりました。
聖光を迎え入れた法然上人は「無常のこの世の救いとなる仏道修行はたくさんありますが、全ての人が救われる修行は、『南無阿弥陀仏』と称える浄土宗のお念仏の教えしかありません」と説かれました。。
幼い頃からさまざまな苦しみを抱え、ひたすら救いを求め修行と学問に励んできた聖光はこの時の法然上人の言葉に自身が救われる喜びを感じ、法然上人の弟子となります。その後約6年間の修行の末、法然上人から浄土宗の教えの全てが記された『選択本願念仏集』を授けられ、浄土宗を継承するにふさわしい弟子と認められます。
そして43歳の時、九州に戻り77歳で往生するまで浄土宗のお念仏の教えを自ら実践し布教することになります。

聖光が残した言葉に「念死念仏(ねんしねんぶつ)」という言葉があります。自分はいつ死ぬか分からないということを忘れずに、阿弥陀仏の救いを信じ、お念仏を称えることです。その教えを胸に今日もただ一向に「なむあみだぶつ」。