住職三分法話①

新型コロナウィルス感染拡大防止の為、正覚寺の行事はすべて中止しております。
毎月の行事で当たり前のように顔を合わせ、共にお念仏や写経をしていた皆様とも久しくお会いできていない状況が続いております。皆様お元気でお過ごしでしょうか。
またお寺に集まり、皆様と共にお念仏や写経ができるようになるまでの間、写経会(1日)、観音講(18日)、御講(25日)の日には『住職三分法話』と題して毎月、住職法話をお届けしたいと思います。

この法話は本ホームページに掲載する他、印刷したものを寺務所前のチラシ棚に置きますので、一読していただければ幸いです。

 

令和2年4月25日 御講  住職三分法話①

『このような時だからこそ』

 

池の水 人の心に 似(に)たりけり 濁(にご)り澄(す)むこと 定(さだ)めなければ

《意訳》池の水は、人の心に似ているものだ。濁ったり澄んだりして定まることがない。

法然上人の詠(よ)まれたお歌です。

人々から勢至菩薩の生まれ変わりと讃えられた法然上人ですら、ご自身の心の中をこのように見つめておられました。

当然、私たち凡夫は周りの状況や自分の立場で心が揺れ乱れることはあります。振り返ると常に心は定まることなく乱れていることに気づかされます。人間とはどんなに自分を律しようと努力しても状況によっては時に心が乱れるものだと法然上人はご自身の懴悔とともにこの歌を詠まれました。

3月末、ある県のドラッグストアでマスクが品薄の為、従業員が顧客からの理不尽なクレームを受けて困り果てているという新聞の記事を目にしました。

毎朝、開店前には20~30人の客の列ができる。店が開くと客は売り場に走り寄って奪い合う。わずかなマスクはすぐに無くなり、従業員はひどい言葉を浴びせられる。
「なぜ、わしに売るマスクがないのか。見殺しにする気か」と怒鳴りつける人や、品切れのポスターに納得がいかず「なんでや!」と怒りをぶつける人もいる。「店員はマスクをしているのに売り場にはないのか」と言われることもあるという。
なんとも悲しい記事でした。

では、自分はどうでしょうか?今、世の中は新型コロナウィルス蔓延で以前では考えられないような事に神経質になり、人の行動が気になり、先の見えない不安と閉塞感が漂っています。皆さんはこの新聞の記事のように実際に口に出さずとも、同じように心の中で文句を言って、人を傷つけ、見えるもの見えないものを奪いあっていないでしょうか。

現在、青森市では都市部のように毎日数百人の感染者が出るような切迫した状況ではなく、ある程度の日常が保たれています。それが、もしも自分の家族や大切な人の命に係わる危機が迫ったならば、実際に口に出し他人を傷つけ奪い合ってしまうのが人間であり、人の心。まさに『池の水』です。

法然上人は状況によって人の心が乱れることは抑えようのないものだと見据えながらも、お念仏を称え懴悔することで心が澄んでいくものと仰せです。
このような時だからこそ、法然上人の仰せの通り、心穏やかにお念仏を称えたいものです。
ゆっくりとお念仏を称え自分を顧みることで、自身の心の乱れを抑え、やがて他人に対しても優しい気持ちになれる気がいたします。

同称十念

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