住職三分法話②

令和2年5月1日 写経会  住職三分法話

 『“必ず死ぬ”ということ』

先日、久しぶりに立川談志さんの落語『らくだ』を聞きました。
『らくだ』は談志さんの得意ネタのひとつで、町一番の嫌われ者で人に暴力をふるったり、家賃を踏み倒したりしていた男と町の人たちのお話です。その男は「らくだ」と呼ばれていました。

「らくだ」はある日フグにあたって突然死んでしまいます。町の人たちは嫌われ者の「らくだ」の死を喜びますが、その後「らくだ」の仲間に脅されて、嫌々ながらもその葬式をすることになります。葬式といっても落語のことですから人の死の悲しみや無常感もなく、町の人たちが悪行ばかりしていた「らくだ」に仕返ししてやろうとばかりに葬式をハチャメチャにしてしまうというようなお話です。

法話とはほど遠いお話ですが、その中のひと事に仏教に通じるものを感じました。
「らくだ」の訃報を聞いた、くず屋(廃品回収屋)さんのひと言です。
「人間、心配しなくても、どんな人間でも死ぬんだなあ。」

このひと言は、普段私たちの言うこととは逆です。
困難にあたった時に
「心配しなくても、死ぬわけじゃないから」
と言うことはよくありますが、
「心配しなくても死ぬんだなあ」と。
しかし事実、人は心配してもしなくても、どのように生きても必ず死にます。
浄土宗の教えは、「お念仏を称えて極楽浄土に往生すること」です。
極楽とは死後の世界であり、死後に極楽浄土に行けるのが浄土宗の教えです。しかし必ずしも死後に救われることだけを説いているわけではありません。もし浄土宗が死後の救いのみを説く教えであるならば、極端な話ですが、「念仏を称えれば必ず極楽に行けるなら、この世は何をしたっていいじゃないか」ということになってしまいます。
法然上人がお示しくださったお念仏の教えは、そのような教えではありません。浄土宗の教えは死の間際に阿弥陀様に極楽へ救っていただく教えであり、さらには極楽を信じて生きる教えです。極楽浄土という世界があり、仏様や亡き方々が見守ってくれていると信じればこそ、この世で困難に遭い挫折したとしても、また立ち上がり精進する力になります。
「必ず死ぬ」という現実を、私たちはお念仏を称えることで「阿弥陀様に必ず救われる」「亡き大切な方々と必ず再会できる」と受け止めることで、その死の瞬間も恐れずに迎えることができます。
さらに、その人が精一杯極楽にいけるような生き方をしたならば、極楽で待つ方も「よくがんばったな」と迎え入れてくださり、この世で残された方々も「ああ、あの人は間違いなく極楽に往かれたのだ」と、安心して見送ることもできるはずです。「らくだ」のように好き勝手に乱暴に生きていては、極楽浄土で待つ大切な方々に合わせる顔がありません。「必ず死ぬ」ならば、この世はお念仏を称え、極楽を信じて謙虚に精進していくしかないと改めて思いました。

同称十念

DSC_3002三内・正覚寺霊園より撮影