2020年6月のアーカイブ
令和2年6月25日 御講 住職三分法話⑥
『挨拶(あいさつ)と距離感』
「おはようございます!」とかわす挨拶(あいさつ)。この『挨拶』という言葉が仏教の用語だとご存じでしょうか。
もともと、師匠と弟子、あるいは修行者同士が出会ったとき、言葉やふるまいで互いに相手の修行の深浅などを試すことを『挨拶』と言います。
「挨」(あい)は軽く押すという意味、「拶」(さつ)は強く押すという意味で、合わせて押し合うさまを表しています。相手との距離感を察し考える言葉でもあります。
普段の挨拶でも「おはようございます!」とこちらが元気よく言っても相手が元気なく小さな声で「おはようございます」と返してくれば、あれ?今日はどこか調子が悪いのかな?と相手の状態を推し測ることができます。逆に元気よく挨拶が返ってくれば、今日もお元気で良かったという気持ちになります。
挨拶とは相手との心の状態や距離感を察するうえでとても大事なコミュニケーションです。
昔からお坊さんの世界では「挨拶」は文字通り師匠が弟子に声をかけて、その反応を見て修行の進み具合や心の状態を推し測ることが日常的に行われていました。
法然上人とお弟子さんとの間であるエピソードが伝えられています。
法然上人が65歳の時です。浄土宗の教えを書物として残す為『選択本願念仏集』(せんちゃくほんがんねんぶつしゅう)を撰述されます。その際、法然上人から頭が良く達筆であった安楽房(あんらくぼう)というお弟子さんが執筆役を命じられます。
しかし安楽房は自分が多くの弟子の中からその役を命じられたことを自分が特別優秀だから選ばれたと慢心し、浮かれてしまいます。そして言動や態度からその心の驕(おご)りをすぐに法然上人に見透かされ、途中で執筆役を解任されてしまいます。
安楽房の慢心に対して、温厚な法然上人がその時は珍しく「あなたには謙虚な気持ちが足りない」と強くお怒りになられました。
仏教において己の慢心や高慢な心は極楽往生の妨げにもなる“悪”です。
相手の心を察することは仏道修行においても日常生活においてもとても大事です。
昨今は新型コロナウィルスの影響で人との距離を取りなさいと言われますが、ただ距離を取るだけでなく相手の心を察し合うことで、謙虚で優しい気持ちになり、相手との良い心の距離感が保たれる気がします。
人との距離感や心の安定がより必要とされている今、まずは自分から朝の挨拶を明るく元気にして、心を穏やかに謙虚に過ごしたいと思う今日この頃です。
同称十念

2020年6月25日(カテゴリー:)
令和2年6月18日 観音講 住職三分法話⑤
『罪を犯して極楽へ?』
「極楽に行ける人は罪を犯した人です」
これは、法然上人のお言葉です。
一瞬、なぜ?と戸惑うようなお言葉ですが、間違いなく法然上人のお言葉です。
仏教の常識では罪を犯した人は地獄に行くのが当たり前です。
子供の頃親に「悪い事をしたり、嘘をついたら地獄に落ちるよ!」とよく叱られたものです。
それと真逆のことを法然上人がおっしゃるとは??
毎朝のお勤めで法然上人の御法語を読ませていただきますが、二か月に一度このお言葉を拝読する度に初めてこのお言葉を目にした時の戸惑いを思い出します。
しかしこのお言葉には続きがあります。
「極楽に行ける人は罪を犯した人です。罪を犯せば本来は地獄に落ちます。しかし罪を犯すことで地獄行きの自身に気づき、どうか救ってくださいと阿弥陀仏にすがり念仏を称える。だから罪を犯した人も極楽へ救われる。こんな嬉しく有難いことはないという思いから日々念仏を称える人となり、極楽へ往くことが決定(けつじょう)するのです」と。
このお言葉は 人は誰でも罪を犯しますが、その罪と向き合い、自身の愚かさを認めて悔い改めて懴悔することが大切です。阿弥陀さまどうか極楽へ救ってください!という思いで念仏を称えましょう。という法然上人からのメッセージだと私は受け止めています。
今から約800年前にもこの法然上人の言葉に救われた方がおられました。正覚寺の寺務所前にねぶたとして祀られている熊谷直実(くまがいなおざね)公です。
直実公は平安時代に源平の合戦で活躍した源氏を代表する荒武者です。直実公は武士の生業(なりわい)とはいえ、これまで数々の人の命を殺(あや)めてきた自分は間違いなく後生は地獄行きだと覚悟を決めていましたが、ある時法然上人を訪ねた時のことです。
法然上人から人殺しという罪を犯したとしても、心から悔い改め、阿弥陀仏の救いを信じ、念仏を称えたならば、必ず後生は極楽へ阿弥陀仏は救ってくれます。という言葉を聞き、
「私は多くの人を殺してきたので、手足を切って命を捨てても後生は地獄行きと思っていました。それなのに阿弥陀仏はこんな私も救ってくださるとはなんとも有難い・・」とその場で大きな体を丸めて泣き崩れたそうです。その後、直実公は武士を辞め法然上人の弟子となり、日々「南無阿弥陀仏」と念仏を称える僧侶となりました。
まさに自身が犯した罪が縁となって念仏を称える人となった直実公のように、己を見つめて、本来地獄行きの自分と思い、日々念仏と共に精進してまいりたいものです。
同称十念

熊谷直実公と阿弥陀仏
2020年6月18日(カテゴリー:)
令和2年6月1日 写経会 住職三分法話④
『本質を見定める心』
先日、テレビで栄養学の先生が納豆は先にかき混ぜてからタレを入れた方が、旨味や栄養が落ちずに美味しく食べられると言っていたのを見て、早速その通りに食べてみました。すると妻は「専門の先生が言う事はすぐに取り入れるね」と言いました。私は毎日、納豆を食べているのですが特に気にせず先にタレを入れてからかき混ぜて食べており、以前妻が同じことを教えてくれていましたが、特に気に留めていませんでした。その納豆の話から他にも、妻と尊敬する先輩から同じ内容のアドバイスを頂いた時も妻から言われた時は聞き流し、先輩に言われた時に行動に移した事があったと言われました。妻は私の事を考えて言ってくれているのに、私はその事に感謝の気持ちを持つどころか、妻の気遣いを無下にしていました。内容ではなく「誰からの情報か」ということに左右されていたことは本当に愚かだったと今は反省しています。
最近、法然上人の弟子の阿波介(あわのすけ)さんを思い出しました。
阿波介さんの職業は陰陽師(朝廷の官職で占いや祈祷などをする人)でしたが、私生活では極悪非道のかぎりをつくしていた悪人でした。阿波介さんはある時、法然上人に出会い、「南無阿弥陀仏」と念仏を称えることでこんな自分でも地獄に落ちずに救われるという教えに感激し、それまでの悪行を悔い改め、出家し法然上人の弟子になり、その後は熱心な念仏の行者になりました。
その阿波介さんにまつわる、こんな話があります。
ある時、法然上人が、大勢の弟子の前で、阿波介さんを指して、「阿波介が申している念仏と、この私法然が申す念仏と、どちらが優れていると思うのか」 と聖光(しょうこう)上人(法然上人から後に浄土宗の二代目を託された方)にお尋ねになられました。
すると聖光上人は「法然上人と阿波介のお念仏が同じはずはありません。法然上人が称えるお念仏のほうが優れているに決まっています」 と答えます。
法然上人は血相を変えられて「お前は日頃から浄土宗の教えというものをどのように聞いていたのだ! この阿波介も阿弥陀様、助けてください!“南無阿弥陀仏”と申している。 この法然も阿弥陀様、助けてください!“南無阿弥陀仏”と申している。誰が称えようと、お念仏に違いなど全くないのだ!」 と厳しく諭(さと)されました。
この話には後日談があり、聖光上人は晩年このことに関して「お念仏の尊さは誰が称えても同じと心得ていたが、法然上人から改めてお念仏の尊さを直接聞くことができたことがありがたく、感動の涙がとまらなかった」と思い返されておられます。
誰が言っていたとか、誰に言われたとか、その時の自分のあいまいな気持ちに惑わされることなく、大切なことの本質を見定めることができるよう日々精進いたします。
同称十念

2020年6月1日(カテゴリー:)
正覚寺
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