無量山 引接院 正覚寺

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住職三分法話

住職三分法話㊷ 徳川家康と浄土宗⑤  ~知恩院~ »

住職三分法話㊷

令和5年6月1日

徳川家康と浄土宗⑤  ~知恩院~

 

浄土宗総本山、知恩院(京都市東山区)は法然上人のご入滅の地に建ちますが、現在のような広大な敷地に大きな伽藍を備える大寺院となったのは江戸時代初期、徳川家康公(以下家康公)の加護によるものであることはあまり知られていなかもしれません。
家康公は同盟関係にあった織田信長が在京の際、京都に赴く時には知恩院への参拝を欠かさなかったと伝わります。そして家康公が39歳の時、本能寺の変で織田信長が明智光秀に討たれると、その時大阪の堺に居た家康公は明智光秀軍に追われ命からがら三重(一説では滋賀)の山中を越えて本拠地の岡崎まで逃げ延びたことは『伊賀越え』として有名です。実はこの時、家康公は堺を脱出してまもなく、本拠地の岡崎までは逃げきれないと思い「知恩院にて自害する!」とお供の家臣達に伝え、全力で家臣達に知恩院に向かうことを止められます。
この時、家康公の脳裏には同じように窮地に立った19歳の時、岡崎の大樹寺のご先祖の墓の前で自害を決意し、大樹寺住職の登誉上人に止められ、『厭離穢土欣求浄土』の言葉を授けられたことが思い返されたに違いありません。(住職三分法話㊴参照)人生において幾度にわたり自害を決意するとは(晩年大阪の陣で真田幸村に攻め込まれた時も自害を決意)家康公の波乱万丈のご生涯を物語っています。
その後、家康公は60歳の時、実母である於大(おだい)の方を弔う為に知恩院に寺領を加増し、御影堂や大方丈などの伽藍を寄進しました。
家康公の知恩院に対する想いは二代秀忠、三代家光へと引き継がれ、現在の知恩院の壮大な山門や伽藍は徳川三代によって築かれたものです。これから知恩院にお参りする際には法然上人はもちろん、家康公のご恩にも感謝しつつお参りしたいものです。  合掌。南無阿弥陀仏。

住職三分法話㊶ ~黒本尊~ »

住職三分法話㊶

令和5年5月1日

 

徳川家康と浄土宗④  ~黒本尊~ 

 

徳川家康(以下家康公)は二十代前半の時期、領地の三河(現在の愛知県豊田市、岡崎市を中心とする地域)において一向一揆との壮絶な戦いを経て、三河を統一し後に名実共に戦国大名となります。家康公はその頃から信仰の対象として阿弥陀如仏の立像を戦の時には共に戦場へお連れするようになりました。その阿弥陀仏像は天下人となった家康公が念持仏として生涯身近に大切にし、数々の戦に同行した仏様として家康公が亡くなった後には勝負事の守り仏として人々の信仰を集めるようになりました。
その阿弥陀仏像は家康公が毎日お香を薫じてお祀りしていたせいか黒光りするようになり、そのお姿から『黒本尊』と呼ばれるようになりました。
現在『黒本尊』は徳川家の菩提寺、(東京都)浄土宗大本山増上寺内の安国殿に秘仏として安置されています。実物の『黒本尊』は秘仏となっている為、目にすることはできませんが、お前立(分身としての仏像)の『黒本尊』は年に3回(1月15日、5月15日、9月15日)の御開帳の時に拝むことができます。

徳川家に伝わる『黒本尊縁起』という書物には『黒本尊』に関するエピソードが次のように記されています。
家康公最晩年の大坂の冬の陣(1614年)での事、家康公は真田幸村の手勢に本陣近くまで攻め込まれ、万事休すとなり、自害を覚悟した時、謎の黒衣の武者が現れて真田軍の鉄砲の攻撃を受けながらも家康公を守り、家康公はその隙にその場を離れ、その後大阪の陣は徳川方が勝利し、家康公は命拾いをしました。その戦の後、家康公が『黒本尊』を見ると体に弾痕があり、足にはつくはずのない泥がついていました。と。
その謎の黒衣の武者は『黒本尊』の化身だったのかは定かではありませんが、家康公はその後も『黒本尊』を身近に安置し、毎日『黒本尊』の前でお念仏を称えられ、自分が亡くなった後は菩提寺である増上寺に安置するようにと遺言を残されました。

いつか『黒本尊』御開帳の時に増上寺へお参りし、家康公を守り抜いた『黒本尊』を拝みながら「南無阿弥陀仏」と声高にお念仏を称えたいと思います。                    合掌

住職三分法話㊵ ~徳川家と増上寺~ »

住職三分法話㊵

令和5年4月1日

 

徳川家康と浄土宗③ ~徳川家と増上寺~ 

 

戦国時代1590年、徳川家康公48歳の時、豊臣秀吉の命により関東の地を治めるようになってすぐに、徳川家の菩提寺として江戸の増上寺が選ばれました。その理由は(『大本山増上寺史』によると)増上寺の住職だった存応上人と家康公の運命の出会いによってのことでした。

当時、家康公が江戸城に入るというので、その様子を見ようと江戸の人々、老若男女が群集し、増上寺住職、存応上人も門前に出てこの様子を見ていました。大名行列の中、馬上の家康公が増上寺の門前に差しかかると、どうしたことか馬が止まって進みません。左右を見渡すと門前に一人の僧侶が立っている。そこで家康公は「あそこに立っているのは何という僧侶か」と家来に尋ねた。その僧侶は「名は存応、寺は浄土宗増上寺でございます」と答えた。家康公は松平家菩提寺の三河の大樹寺も浄土宗という縁だと思い、馬下し増上寺に立ち寄られました。
存応上人は驚きながらも茶の接待をし、家康公は一服した後、帰り際に「明朝、自分一人で参詣し存応上人と朝食を共にしたい」と言い、その場を後にした。存応上人はその言葉に耳を疑ったが、万が一来られるかもしれないと、翌朝、朝食を用意しておくと、家康公は約束通り本当に一人でお越しになられました。その時家康公は「自分が今朝、来たのには理由がある。大将の身分で菩提寺のないのは死を忘れるのと同じである。先祖代々の菩提所は三河の大樹寺であるが、江戸にはないので増上寺を菩提所としたい」と頭を下げられました。すると存応上人その家康公のお姿にただ涙を流すだけで返事が出来ませんでした。「どうしたのか」と家康公が尋ねると「昨日入府したばかりなのに、この様な沙汰があろうとは思いもよりませんでした。そのうえ、私のような愚僧が家康公の菩提所の住持になるとはなんと有難いことであろうと涙が溢れました。」家康公も感悦し「それでは入檀の契約に十念を授けてほしい」といい、存応上人からお十念を授与され(南無阿弥陀仏を共に十遍称えること)、それ以降家康公の手厚い保護もあり、増上寺は大寺院として隆盛へと向かって行きました。そして家康公は元和二年(1616年)増上寺にて葬儀を行うようにとの遺言を残し75歳で往生され、家康公の葬儀は増上寺で二代将軍徳川秀忠公が喪主となり盛大に執り行われました。

家康公と存応上人の出会いと、この世の人の縁の大切さに想いをはせ、共に今日もただ一向に「南無阿弥陀仏」。      同称十念

住職三分法話㊴ 徳川家康と浄土宗② ~厭離穢土欣求浄土(えんりえどごんぐじょうど)~ »

徳川家康と浄土宗② ~厭離穢土欣求浄土(えんりえどごんぐじょうど)~ 

 

徳川家康(以下家康公)と浄土宗の最初のつながりは家康公が19歳(17歳説あり)の時、織田信長が今川義元を打ち破った桶狭間の戦いの時です。桶狭間の戦いでは今川義元の家臣だった家康公は織田軍に追われ命からがらわずか20名足らずの家臣と共に先祖代々の菩提寺である岡崎の大樹寺へ逃げ込みます。そして寺を敵に囲まれ追い込まれた家康公は敵に首を差し出すわけにはいかないと決意し、大樹寺内の先祖代々の墓前で自害をはかろうとするのですがその時、自害を止めに現れたのが大樹寺の住職、登誉上人でした。
登誉上人は、先祖代々の墓前でひざまづく家康公に「あなたの先祖は代々この岡崎の地を必死で守ってこられました。あなたも生き延びてこの岡崎をどうかお守りください。」と語りました。そして『厭離穢土 欣求浄土』(えんりえどごんぐじょうど)
【穢(けが)れたこの世を厭(いと)い離れ、極楽浄土に往生することを願い求める】という『往生要集』という仏教書に説かれる言葉伝え、この世をしっかり生き抜くように励まされました。その言葉を受け、家康公は自害することを踏みとどまりました。

厭離穢土欣求浄土』の教えを受け自害を思いとどまり、生き残ることを選んだ家康公ですが、周囲は依然、敵に囲まれています。家康公にはわずかな手兵しかいません。この絶体絶命の状況の家康公を救ったのは、大樹寺の僧侶たちでした。僧侶たちは寺の門を閉じていた巨大な角材(かんぬき)を抜いて武器にしたり、投石をして地元岡崎の殿様の家康公のために奮戦し、犠牲者を出しながらもなんとか敵を撃退することに成功しました。こうして危機を乗り切った家康公は、無事に岡崎城へ帰還し『厭離穢土欣求浄土』は、家康公終生の座右の銘となり、戦いの時には旗印として高々と掲げられることになります。家康公はこの時を境に浄土宗の信仰心のもと戦国武将として乱世に踏み出すことになります。

現在放送中のNHK大河ドラマ『どうする家康』ではこの場面を登誉上人の代わりにのちに家康公の重臣となる榊原康政が『厭離穢土欣求浄土』の言葉を家康公に伝え、「穢れたこの世を浄土にすることをめざせ!」と励まされていました。
この解釈は本来の『厭離穢土欣求浄土』の意味とは違いますが、若き家康公はドラマの解釈通り、戦国の世において『この世を浄土に(平和に)する』という志を持って、時には非情になり、苦しみながら信じた道を進まれたと思います。そして天下泰平の世を築いた晩年は自身の懺悔やこれまで命を落としていった者への供養の思いから、毎日『南無阿弥陀仏』の写経をし、毎日「南無阿弥陀仏」とお念仏を称えられていた事実から推察するとその晩年の想いはまさに本来の『厭離穢土欣求浄土』の教えである「ただただ極楽浄土へ救われたい。阿弥陀様お救い下さい」の心からの願いだったはずです。

時代は違いますが、まさに乱世の現代を生きる私たちも晩年の家康公のように『厭離穢土欣求浄土』の教えと共に今日もただ一向に「南無阿弥陀仏」。    同称十念

住職三分法話㊳徳川家康と浄土宗~はじめに~ »

住職三分法話㊳

令和5年2月1日

 

徳川家康と浄土宗① ~はじめに~ 

 

徳川家康(以下家康公)といえば日本人なら誰もが知っている戦国時代の武将であり、260年の平和な江戸時代を築いた江戸幕府の初代将軍です。
今年のNHKの大河ドラマ 『どうする家康』の放送もあり家康公に今、改めて注目が集まっています。

しかしその家康公が浄土宗の信者であったことはあまり知られていないかもしれません。さらに家康公なくして現在の浄土宗は無かったと言っても過言ではないほど現在の浄土宗にとって多大な功績と影響を与えた方であることをここで再確認するべく、これから10回にわたり『徳川家康と浄土宗』と題してそのつながりをお伝えしていきたいと思います。

家康公は徳川を名乗る前は松平(まつだいら)の姓を名乗っていました。室町時代、松平家は三河国松平郷(現在の愛知県豊田市)のあたりを拠点とする豪族で、家康公は松平家の9代目当主です。
松平家と浄土宗の関係は、文安2年(1445)に松平家4代目当主松平親忠(ちかただ)が浄土宗を信仰したことをきっかけに松平家の菩提寺として三河(現在の愛知県岡崎市)に浄土宗寺院大樹寺を開き、その後も松平家の庇護のもと松平家領内には続々と浄土宗寺院が建立されました。さらに松平家から出家し浄土宗僧侶となった存牛(ぞんぎゅう)上人が京都知恩院の住職(知恩院25世)を務めたことで松平家と浄土宗の関係はより深まっていきました。
そして天正18年(1590)家康公48歳時、江戸入城と同時に増上寺住職の存応上人との出会いをきっかけに増上寺を徳川家の菩提寺とし、手厚い保護を加えて江戸の小寺だった増上寺を大寺院へと発展させました。家康公以降の時代も徳川家の支援によって建立された寺院は多く、現在の浄土宗が全国7000ケ寺の大宗派となったのは徳川家の恩恵であることは間違いありません。

家康公は元和二年(1616)に75歳でこの世を去りますが、その際には遺体は久能山(現在の静岡県)に埋葬、葬儀は江戸増上寺にて行い、位牌は三河大樹寺に安置するように遺言を残しています。また晩年の日課として「南無阿弥陀仏」と念仏写経をされ、その数点が現存しています。(ちなみにそのうちの一点が経緯は
不明ですが、青森県立郷土館に保管されています)
家康公は晩年日課として念仏を称え、写経を続けられました。その詳しい想いは家康公本人のみぞ知るところですが、側近の僧侶には自分が戦の世を終わらせ平和の世にするためとはいえ、多くの命を奪い、殺生を続けてきた懴悔の想いを吐露しています。その反省と懴悔の想いからの念仏であれば、それは法然上人の教えである浄土宗の『懴悔の念仏』『極楽への往生の為の念仏』に違いありません。

天下人となった家康公も法然上人の教えのもと、阿弥陀仏を頼り、救いを求めておられました。その自身の行いを懴悔して一心に極楽往生を願いお念仏を称える想いは、現在を生きる私達と同じだったはずです。                    同称十念

住職三分法話㊲ »

住職三分法話㊲

令和5年1月1日

法然上人と御家人➉ ~まとめ~

 

法然上人がご在世の鎌倉時代、将軍(鎌倉殿)と主従関係を結び家来(家人)となった武士を将軍への敬意を表す「御」をつけて御家人と呼ぶようになりました。その御家人の中には法然上人の弟子となられた方が多く、これまで9回にわたりご紹介してまいりました。私自身、この機に法然上人の弟子となった御家人を調べて感じたことは、そのほとんどの御家人は一般的には有名ではない歴史に埋もれ名も残らないような武士たちですが(熊谷直実は埼玉県の熊谷駅前に銅像が残るほど有名ですが)それぞれが法然上人の弟子として念仏を心の拠り所として熱い思いを持ち続け命がけで鎌倉時代を生き抜いた浄土宗を信仰する大先輩であり※善知識の方々でした。

(※仏教を信仰し、縁のある人を仏道に導く徳ある人)

中でも私が改めてこの御家人たちの中で感情移入した人物は、この住職三分法話『法然上人と御家人①』でご紹介した甘糟忠綱(あまかすただつな)です。

ほとんどの御家人は法然上人の教えを聞き、弟子となった後は武士を辞めて僧侶になりましたが、甘糟忠綱は武士のまま念仏信仰を貫き武士として往生した人物です。

法然上人の弟子となり仏道を志すなら、殺生を仕事とする武士を辞めることは当然だと思いますが、忠綱はその葛藤を素直に法然上人に打ち明け、教えを請いました。

「私は、武家に生まれ、戦をして家族と領地を守ってきました。これからそれを貫いて敵と戦えば、人を殺すことになります。しかし武士を辞めて極楽に往生したいという気持ちを貫けば、周りからは末代まで臆病者と呼ばれるでしょう。何とか、武士の家業も捨てる事無く、極楽往生の願いも叶えられる事はできないでしょうか!」

その質問に法然上人は次のようにお手紙で答えらました。

「阿弥陀様の救いはその人の浄・不浄を選ぶ事も無いのです。時にも場所にも縁にも関係なく、罪人なら罪人として、「なむあみだぶつ」を称えるならば、その時から極楽への往生は叶えられるのです。たとえ戦で命を失う事になっても、念仏さえ称えていれば必ず、往生が遂げられる事でしょう」と。そして仏教徒の証である袈裟を忠綱に送りました。

忠綱はその袈裟を受け取ると鎧の下にその袈裟をかけ、文字通り命がけで最後の合戦に挑みました。そして忠綱はその戦で命を落とすことになります。激しい戦いで精魂尽きた忠綱は、最後に合掌し声高々に念仏を称え、首を差し出すように頭を下げて敵に首を切らせた見事な往生であったと伝わっています。

忠綱をはじめ鎌倉時代の御家人たちが、身分、職業、性別、有名、無名などに関係なく、ただ一向に阿弥陀仏の救いを信じ、法然上人の教えを信じて貫いたように、現代に生きる私自身も御家人たち善知識をお手本にこの身のまま、智者のふるまいをせずしてこれからもただ一向に念仏を称えて参りたいと思います。             同称十念

 

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