住職三分法話㊽ 令和5年12月1日
徳川家康と浄土宗⑪~まとめ~
これまで10回に渡り徳川家康(以下家康公)と浄土宗の関わりと家康公の浄土宗の信仰についてお伝えしてまいりましたが、今回はそのまとめとして私が家康公から学んだ浄土宗の信仰について述べたいと思います。
家康公の信仰の原点はやはり戦場の旗印として生涯にわたり使われた
『厭離穢土 欣求浄土』(えんりえどごんぐじょうど)に集約されています。
これは『往生要集』という仏教書に説かれる言葉で【穢(けが)れたこの世を厭(いと)い離れ、極楽浄土に往生することを願い求める】という意味です。
この言葉は家康公が19歳の時に徳川家の菩提寺である大樹寺の住職から授かった言葉で、一般的にはこの言葉を家康公は『この世を戦のない浄土にしてみせる』という決意で使っていたと言われますが、家康公の生涯を見ると決してそのような独自の解釈ではなく、仏教の教えに説かれるそのままに『この世は穢れた穢土だが、来世はどうか極楽浄土へ往けますように』と、すがるような想いで生涯大切にされていたと分かります。
『不自由を常と思えば不足なし』と晩年の家康公は常々語り、この世はどこまで行っても(天下人になっても)穢土であることを自覚されていました。若い頃は戦続きで父を殺され、妻と息子を殺され、晩年は母を送り、苦労を共にしてきた家臣達が次々先立つなど悲しみが絶えず、この世が思い通りにならないことを痛感する連続の中で、『どうにか来世こそは苦しみの無い極楽浄土へ』という『欣求浄土』の想いが心の底から湧き出て、『南無阿弥陀仏』のお念仏を称えながら『南無阿弥陀仏』と何百何千枚と写経をする日々を送られました。
家康公あっての今の浄土宗であることはこれまでお伝えしてまいりましたが、知恩院、増上寺、大樹寺、伝通院という大寺院の造営建立等は尊く有難いことですが、家康公の一番の有難さは「なむあみだぶつ」とお念仏と共に生きることを身もって後世の私達に示してくださった信仰のお姿であると改めて思います。
家康公の恩徳を偲び先達の姿を見習い、今日もただ一向に「南無阿弥陀仏」合掌。
( 2023年12月1日 )
住職三分法話㊼
令和5年11月1日
徳川家康と浄土宗➉~母の供養~
家康公の母、於大(おだい)様は歴史の表舞台にはほぼ登場しませんが、戦国時代の争乱に翻弄されながら天下人の母として波乱万丈の生涯を送られた方です。
於大様は14歳の時、家康公の父松平広忠公に嫁ぎ翌年岡崎城で家康公を出産されます。しかしその3年後、於大様の兄が松平家と敵対する織田家に味方したため離縁させられ、家康公とは離ればなれになってしまいます。最愛の息子と別れなければならなくなった悲しみの中、於大様は服や菓子などの物資を送り続け息子の身を案じていました。
世の中の情勢が変わり16年後、於大様は家康公(19歳)と再会を果たします。2歳の時に別れた息子とその後は離れていた時を埋めるように親子の絆を深め、時には母として家康公へ助言や叱咤激励をする厳しくも優しい母として家康公の活躍を見守ります。
時は流れ、於大様は慶長7年8月29日、家康公が滞在する京都の伏見城にて75年の生涯を閉じられます。家康公(59歳)が天下分け目の関ヶ原の戦いに勝利し実質的な天下人となった2年後のことでした。
於大様の死後、家康公は生前に親孝行を十分にできなかったことを悔やむかのように母の供養を丁寧に行っています。
於大様の葬儀は知恩院で盛大に行われ、その後遺体は江戸の伝通院へ送られ埋葬されました。一周忌には家康公参列のもと知恩院にて法要が厳修され、三回忌、七回忌には知恩院や伝通院に寺領増など多大な寄進が行われました。そして十三回忌(家康公73歳)の年には、天下泰平の総仕上げの戦、大阪(冬の陣)へ赴く前に知恩院にて於大様の月命日に合わせ法要が行われました。
さらに家康公は天下人となった後も於大様の為、念仏を日々欠かさず称えています。家康公が母の供養を続けたお姿に想いを馳せて、その供養の心を見習い、今日もただ一向に「なむあみだぶつ」。 同称十念
( 2023年11月1日 )
住職三分法話㊻
令和5年10月1日
徳川家康と浄土宗⑨ ~大蔵経(だいぞうきょう)~
徳川家康公が浄土宗を庇護(ひご)し、知恩院や増上寺などの寺院を整備したことがその後の浄土宗の隆盛に大いに影響していることはこれまでも書いてきましたが、家康公の浄土宗に対する多様かつ多大な貢献の一つに増上寺への大蔵経の寄進(寄進=寺に物品やお布施を納めること)があげられます。
大蔵経とは仏教の教えの全てが記されている経典(お経本)のことで一切経とも言います。巻数にして約5000巻にもおよぶ膨大な量のお経です。
普通の人なら一生かけても全てを読むことは難しいこの大蔵経を法然上人は修行時代に5遍読み解き、仏教の基礎を体得したと伝わります。
その仏教の教えの全てが記された貴重な大蔵経を家康公は三部(高麗版、元版、宋版の三種類)も増上寺に寄進しています。
この寄進は天下人となった家康公だからできたことであり、その経緯は賛否があるかもしれませんが次のように伝わります。
(大本山増上寺史より)1609年、家康公68歳の時、大和(現在の奈良県)円成寺所蔵の大蔵経(高麗版)を所望し、円成寺より235石(現在の価値で約2000万円)で貰い受け、直後に増上寺に寄進。翌年に伊豆(現在の静岡県)修善寺所蔵の大蔵経(元版)を寺領40石で召し上げ(寺領40石=毎年約400万円ほど)直後に増上寺に寄進。さらに3年後には近江(現在の滋賀県)管山寺所蔵の大蔵経(宋版)を50石(現在の価値で約400万円)で召し上げ、直後に増上寺に寄進しています。そして家康公はその時に三部の大蔵経を増上寺に寄進しただけではなく、800両(現在の価値で約8000万円)の維持費も添えて寄進しています。このお金で増上寺は寄進された大蔵経の修理をしています。
ではなぜ家康公が大蔵経を増上寺に寄進したかというと、当時日本に現存する大蔵経はすべて外国製(中国や朝鮮)だったので、読書家であり仏教に精通し浄土宗を信仰する家康公は日本製の新たな大蔵経を校訂し出版したいという願いがあったからだと当時の状況から推察できます。(仏教学者金山正好氏の説)
その家康公の願いは江戸時代には実現はできませんでしたが、300年後、この増上寺の大蔵経が基になり、現在も我々僧侶が勉学や信仰の拠り所とする『大正新修大蔵経』が昭和9年に完成することになります。
家康公が当時、日本各地から大蔵経を収集し増上寺に寄進したことで数百年の時を経て昭和初期に家康公の願いが叶ったことはとても感慨深いことであり、浄土宗だけではなく仏教全体の宝となっています。家康公によるこの大蔵経の寄進がなければ、おそらく現在のような大蔵経の研究は成されなかったはずです。今日は大蔵経を収集し増上寺に寄進をされた家康公の功績に感謝しながら読経したいと思います。 合掌
※現在浄土宗では大蔵経のデジタル化を進めており、来年(2024年)浄土宗開宗850年に合わせインターネットで公開を予定しています。
( 2023年10月1日 )
住職三分法話㊺
令和5年9月1日
徳川家康と浄土宗⑧ ~遺言~
徳川家康公(以下家康公)は元和2年(1616)4月17日、駿府城にて生涯を閉じました。行年75歳。平均寿命が40歳~45歳といわれる戦国時代においてかなりの長寿でした。
家康公は、亡くなる二週間ほど前、三人の側近の家臣を呼び次のような遺言を残しています。
- 遺体は駿府の久能山に埋葬すること
- 埋葬の向きは西に向け蹲踞(そんきょ)させること
- 葬式は江戸の増上寺で行うこと
- 位牌は三河の大樹寺に納めること
- 一周忌の後に、日光に小さなお堂を建て※勧請(かんじょう)すること
※勧請=分霊を祀り祈りをささげること
この遺言の通り家康公のご遺体は、久能山(静岡県静岡市)に葬られ、西向きに蹲踞の形で埋葬され、葬儀は江戸の浄土宗大本山増上寺で行われ、位牌は故郷の三河の大樹寺に納められました。
しかし、遺言の5番目の「一周忌の後に、日光に小さなお堂を建て勧請すること」はその通りには守られませんでした。一周忌の後、日光には小さなお堂ではなく壮大で豪華絢爛なお堂が建てられました。現在の日光東照宮です。これは家臣たちが遺言を忠実に守らなかったことは事実ですが、家康公の遺徳を偲ぶ家臣たちの篤い忠義からの行いだったと信じたいです。
そして家康公が亡くなられた直後、ご遺体は駿府城から久能山に運ばれ埋葬されましたが、久能山東照宮に伝わる話では、現在も遺言の通り家康公のご遺体は四角い棺に正装姿で座した状態で、西を向いて葬られているとのことです。
この西を向いて葬られていることがとても興味深いところです。
歴史研究家の間では家康公が西向きに安置するように遺言を残したのは、この世を去った後も豊臣の残党がいる西国や京の朝廷に睨みをきかせる為と言われていますが、私は家康公が西向きに安置するように遺言されたのは西方極楽浄土への往生を願ったからだと確信しています。晩年の家康公は毎日お念仏を称え、数えきれないほどの「南無阿弥陀仏」の写経をされています。それは旗印の『厭離穢土 欣求浄土(えんりえど ごんぐじょうど)』(意味は3月の住職三分法話参照)の想いからだったに違いありません。生涯において平和な世を築くために時には多くの人を殺めてきた自身が晩年に後生を思う時、地獄に落ちることを恐れ、阿弥陀仏に救われ西方極楽浄土に往かせて頂きたいと心から願ったはずです。その願いからの「西向き」の遺言だったはずです。そうでなければ家康公があれだけの数の写経をひたすらにされた説明がつきません。
家康公が晩年、ただ一心に阿弥陀仏の救いを求めたお姿を想い、今日もただ一向に「南無阿弥陀仏」。 合掌
( 2023年9月1日 )
住職三分法話㊹
令和5年8月1日
徳川家康と浄土宗⑦ ~三つ葉葵の紋~
浄土宗寺院では宗紋の『月影杏葉』の紋と共に徳川家ゆかりの『三つ葉葵の紋』を掲げている寺院が数多くあります。
正覚寺でも本堂や玄関など多くの箇所に『三つ葉葵の紋』を掲げています。お参りに来られた方からは浄土宗の寺院でなぜ徳川家の『三つ葉葵の紋』があるのか?とよくご質問を受けます。
その理由は今から約500年前に遡(さかのぼ)ります。
徳川家康公の高祖父(四代前の当主)の松平親忠公は松平家が三河の地を統治する戦国大名になる礎を築いた方で、その親忠公の子、存牛上人が永正17年(1520年)浄土宗総本山知恩院の25代目の住職になります。存牛上人は戦国時代、大名や皇室と関係を繫ぎ、戦乱の世で荒廃する浄土宗を支えた名僧です。
江戸時代の書物『起立開山名前・御由緒・寺格等書記』によると存牛上人のご遺訓が次のように記載されています。
我(存牛)は法然上人のご遺跡(知恩院)に後白河法皇の命を受け住職に就任せしむ。松平家に生を受けその後出家し、法皇の勅許勅請を賜ることは名誉なことなり。我が名誉が松平家の名誉なれば、我が跡を後代に残さんがため、当山の紋は後世に至るまで、我が元の姓の『葵紋』とすべし。と知恩院の寺紋を松平家の『葵紋』と定めたことが示されています。
さらに『知恩院史』によると家康公は八歳の時に知恩院に参詣し、存牛上人より仏教や浄土宗、松平家についての勧諭(講義)を受け、後に天下人となった家康公は「天下平治の功、存牛上人の勧諭による。重ねて存牛上人の仰せの通り永世当家の葵御紋を知恩院(浄土宗)の御紋とし、天下安全を祈願するように」と仰せになられたと伝わります。
500年後の今『三つ葉葵の紋』を見ると永世に渡り松平家、徳川家、存牛上人に見守られている想いが深まります。合掌。
( 2023年8月1日 )
住職三分法話㊸
令和5年7月1日
徳川家康と浄土宗⑥ ~大樹寺~
大樹寺(愛知県岡崎市)は徳川家康(以下家康公)の菩提寺であることは3月の住職三分法話『徳川家康と浄土宗②~厭離穢土欣求浄土~』にてお伝えした通りですが、今回は当時の大樹寺を含め寺院をとりまく状況がどのようなものだったのか?家康公が大樹寺に対して命じた法度(法律のような決め事)を通じてお伝えしたいと思います。
天正9年(1581)4月、39歳の時、家康公は大樹寺に対して五か条の法度を定めました。その内容は
- 僧侶同士の口論の禁止
- 夜中に瓦礫を打つなどの狼藉の禁止
- 日暮れに女が寺に出入りすることの禁止
- 僧侶の悪事を私的に誹謗中傷することの禁止
- 法度に背いた僧は一同で申し出ること 以上。
この法度が定められたのは家康公の父、松平広忠公三十三回忌法要が大樹寺で営まれた時です。その法要には僧侶100人が参列し本堂に入りきらないほどの食糧が奉納されました。広忠公は22歳でこの世を去っています。当時家康公は8歳でしたが、父の供養を欠かさず行い、父や先祖が祀られる大樹寺を特別な想いで庇護してきました。大樹寺は現在も徳川家(松平家)の菩提寺として歴代将軍の位牌が安置され法要が営まれていますが、戦国時代は大樹寺を含む多くの寺院が本来の姿である仏教の修行や供養の場としての役目を果たすことが難しい状況でした。戦続きの岡崎では特に寺院は荒れ果て僧侶は仏道に精進する状況ではなかったことが家康公の定めた法度からも想像できます。
禁止事項を見ると僧侶同士の口論や争い、女性の出入りが横行していたことが伺えます。また家康公は二十代の前半は三河地方の一向一揆(一向宗の寺院を中心とした反乱)との戦いに明け暮れた経験から、寺院に対しては特に気を配り、民衆の心の拠り所となるべく僧侶に期待を込めておられたと思います。現在の大樹寺や浄土宗僧侶を見て家康公が何を想うか興味深くも恐ろしくもあります。
極楽浄土からの家康公の視線を感じながら精進あるのみです。 合掌
( 2023年7月1日 )
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